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宇津救命丸は、1597年の創業以来、400年以上にわたって、ご家庭の常備薬として愛用されてきました。
宇津救命丸は、創業以来たくさんの赤ちゃんの健康を守ってきました。そしていつしか "夜泣きといえば宇津救命丸" といわれるようになり、子供の薬の代名詞として愛用されております。
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宇津家と救命丸の創製
宇津家の初代宇津権右衛門は、500年以上続いた下野の国(現在の栃木県)の国主、宇都宮家の殿医(殿様専属の医師)として仕えていました。宇津家は藤原家の流れを汲み、宇都宮家とは縁戚関係にあったという説もあります。1597年(慶長2年)、22代宇都宮国綱は突然豊臣秀吉に領地を奪われ、初代宇津権右衛門は同年10月13日、下野国高根沢西根郷(現在工場所在地)に帰農しました。
以来、村の取立役となり、半農半医の家業の中で村人の健康のために「金匱救命丸」※を創製しました。救命丸がいつ創られたか年代ははっきりしませんが、 元和年間(1620年)の製薬に関する古文書が残っていることから、少なくともそれ以前であることは確実です。※金匱(きんき)とは「貴重な」という意味があります。
エピソード① 救命丸の成り立ち
救命丸がどうして作られたかは定かでありませんが、旅の僧侶から伝受されたという話が伝わっています。
昔は交通機関もなく旅館も少なかったため、宇津家には沢山の旅人が訪れ、その中には有名な文人・墨客もいました。
また、身寄りのない貧しい人たちも助けてあげたそうです。
ある日門の前に旅の僧侶が倒れており、手厚く看護をしたところ、お礼にと残した一冊の書物の中に救命丸の処方が記されてあったと言われています。
これはあくまでお話ですが、実際は豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたとき宇都宮家も一緒に出兵したので、それに同行して地元の処方を持ち帰り、和風にアレンジしたのではないかと思われます。
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施薬から置薬へ
「宇津家の秘薬」金匱救命丸は、近郷近在の人々に無償で分け与えられていましたが、その優れた効能は次第に評判となり、関東一円から買い求めて来るようになりました。
この頃から置き薬※として江戸をはじめ各所の旅籠や造り酒屋などに置かれるようになり、徐々に全国に広まっていきました。
その後下野の国の領主となった一橋家に、毎年救命丸を献上し、その名声はますます高まっていきました。※置薬とは、旅籠や商店に薬を置いてもらい、売れたら後で代金をもらうシステム。薬の小売店のはしりで、家庭に置く配置薬とは一線を画します。
エピソード② 100キロの道のりを1日で
領主となった一橋家は、徳川の将軍の後継を輩出する御三卿の一つで、特に子供を大切に育てていました。
そのため、救命丸の効き目を信頼し、子供が丈夫に育つように飲ませていたという記録があります。
そして、万一救命丸が切れたときには、栃木県の高根沢から江戸の一橋家まで持ってくるようにと、一橋家の御紋付きを御用提灯を二つ渡されていました。
江戸までは100キロ以上離れていますが、鬼怒川を舟で下り途中で江戸川の舟に乗り換え、秋葉原にあった船着場から屋敷まで馬を走らせれば意外に早く着いたそうです。
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救命丸の製法
秘薬として作られた金匱救命丸の製法は、代々長男だけに口伝で伝えられ、 その調合をする時は製薬信条※に従って斎戒沐浴し、当主以外近づけない誠意軒の中で行われました。
当時、金匱救命丸の一粒は米一俵の価値(約5万円)と同じと言われていたことから、いかに原料が貴重だったかということが伺えます。
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近代化への変換
明治・大正時代は、新聞、雑誌、看板を中心とした広告を始め、昭和になるとラジオ、テレビでコマーシャルを流し、全国的に有名になりました。
また、おばあちゃんからお母さんへ、お母さんからお子さんへと口コミで伝えられ、赤ちゃんのいる家庭で夜泣き、かんむしによく効く常備薬として愛用され続けてきました。
現在は、宇津救命丸は厚生労働省の定めるGMP適合工場で厳しい衛生管理の下、最新の設備で作られています。
また宇津救命丸の処方は、臨床データや科学的方法によって裏付けられ、その安全性や有効性が立証されつつあります。
エピソード③ 宇津(うづ)のルーツは宇都(うつ)
歴史の長い家庭薬(昔からある一般薬)の中には、弊社のように社長の苗字(宇津)と会社名が同じところがありますが、弊社はちょっと読み方が違います。
現在、社名製品名ともに「うづ救命丸」といいますが、もともとは「うつ救命丸」でした。
宇津家の初代は、宇都宮家から宇都(うつ)という苗字を拝命し、その後宇津と改名して「うつ救命丸」を創りました。
しかし昭和40年ごろ、ラジオ·テレビでコマーシャルを始めた時に、「うつ救命丸」では聞き取りにくいということから、「うづ救命丸」という読み方に変えたのです。
ちなみに家庭薬の中でも社長の苗字・社名・製品名の3つが同じというのは非常にまれです。
※宇津家の家系図 これは宇津家の家系図で、現在の社長は19代目「善行」です。
宇津史料館
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高根沢工場の一郭に、宇津救命丸の長い歴史に係るいろいろな資料を集め展示しています。 地元高根沢町の小学校では、宇津史料館と宇津薬師堂の見学が4年生の授業の一環になっていて、ます。社会科の副読本には宇津家の功績と宇津救命丸の歴史が掲載されています。
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ここには、宇津救命丸の昔からのパッケージが一堂に展示されています。現在のデザインになったのは1945年ごろで、長く親しま れているパッケージが安心感を生んでいます。
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自然の生薬だけを使って作られている「宇津救命丸」は、創業以来その処方内容はほとんど変わっていません。
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江戸、明治、大正時代の薬を作る道具です。小さな粒を作るため、いろいろな工夫がされました。
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明治・大正・昭和の新聞、雑誌広告が展示してあります。
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江戸時代から残る長屋門。むかしはかやぶきでしたが、かやが採れなくなったので平成になって銅ぶきに変えました。
宇津誠意軒
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宇津家の屋敷の木立の中にあり、江戸時代から明治の初めまで、この中で宇津救命丸の調合をしていました。その処方は「一子相伝」として宇津家の当主からその長兄だけに口伝えで教えられ、製薬中は誰も近寄る事を禁じられていました。宇津誠意軒は、今なお当時の佇まいのまま残っています。
宇津薬師堂
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工場の東南の一画にあり、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)が奉られています。江戸時代に人々が病苦から救われることを願って建立され、栃木県高根沢町の指定文化財となっています。総ケヤキづくりで日光東照宮とほぼ同時代の建物で、様式も以ていることから、東照宮を建てた宮大士がこの辺に住みつき、建てたのではないかと言われています。建物の周りにある彫り物の中にはまだ赤や緑の塗料が残っており、建設当時は陽明門のような極彩色だった可能性があります。
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天井には龍の墨絵を中心に、56枚の薬草の絵が描かれています。
紫陽花(あじさい)や朝顔の絵は今でも鮮やかさが残っています。
一万燈祭(いちまんどうまつり)
宇津薬師堂では昭和の中期ごろまで、毎年8月9日の薬師の日に、人々の健康を祈願して一万燈祭を行っていました。 当時は境内で芝居や映画を上演したくさんの出店も出て、この日を楽しみに遠方からも沢山の人々が集まってきたそうです。 2012年に、地元への貢献としてこのお祭りを約50年ぶりにこのお祭りを再開し、多くの家族連れやむかしを懐かしむお年寄で賑わい、県知事や町長もご来場されました。 一万燈祭とは「一万の灯をともして人々を導く」という仏教用語で、お祭の夜に沢山の灯燈を立てたことからなぞられて命名されました。